■■■田口ランディのコラムマガジン■■■ 2003.3.21http://www.randy.jp/■ ---------------------------------------------------------------------------- 「ストーカーと戦争」 ----------------------------------------------------------------------------  2月26日のことだったと思う。埼玉県の桶川ストーカー事件をめぐる裁判の判決 が埼玉地裁で出た。  埼玉県は、捜査の不備は認めるものの埼玉県警が殺人事件を予見することは不可能 だったと主張し、地裁もそれを認めていた。ニュースを見てショックだった。  翌朝のマスコミ報道はいっせいに「警察は何もしてくれないのか」「国民が警察を 頼っても助けてもらえないのか」という、警察の側の捜査怠慢を訴えていた。  考え込んでしまった。他人事ではなく自分が、あるいは自分の身近な人間がもし「ス トーカーされている」となったとき、どうすればいいのか……と。  私は警察の対応が良かったとは決して思わない。だけど、今回のような反社会性人 格者が引き起こす事件に関して、いったい警察はどのような介入が可能であり、それ が法的に認められているのかについて、知りたいと思った。現在、友人の弁護士さん に質問をしているのだが、まだ答えはない。  というのは、この犯罪を引き起こしたKという男性は、精神病理学的に判断するな ら、たぶん反社会性人格障害者なのだ。  この反社会性人格障害者という人たちを、精神医療も警察もたいへんに苦手ではな いかと思う。どこに世話を持ち込んでいいのかわからない人たちだからだ。  反社会性人格障害者とは、どういう人たちか。アメリカの精神医学の判断分類マニュ アルに沿って簡単に説明すると、 「法にかなう行動という点で社会的な規範に適合せず、犯罪を繰り返す」「ひとをだ ます傾向がある」「衝動性または将来の計画が立てられない」「攻撃性。暴力を繰り 返す」「自分または他人の安全を考えない向こうみずさ」「一貫して無責任であるこ と」「良心の呵責の欠如」などが条件としてあげられている。  このような人達が引き起こす犯罪というのは、たしかに警察が予見するのは難しい かもしれない。それを前提に問題を考えなければならないと思う。そうかと言って、 この人たちを病気とみなして精神医療に押し付け、病院に世話を頼むというのもムリ がある。  この反社会性人格障害者というのが、精神の病気あるいは障害かというと、私はそ うではないと思っている。  だからもし犯罪に関与した場合には、法の下に一人の独立した人間として責任を問 いたい、と思う。だけど、これがとても難しい。なぜなら、反社会性人格障害と呼ば れる人は、法という社会的な価値観に実感とか納得がないし、私たちが想像するよう な「反省」とか「良心の呵責」も感じないという人格なのだからだ。  となると、この反社会性人格障害者に対して警察が対応する場合には、そのような 人格の人々と対峙するための知識と考慮がないと、桶川ストーカー殺人事件のような 事件はまた繰り返される気がする。  加害者であったKの行動も考えも、自己中心的で、攻撃的で、偏執的。でもKは風 俗店の店長をしており、社会から逸脱した存在ではない。でも行動は常人の想像を絶 する。ここで、警察の捜査が甘いと言ってみても根本的な解決にならないと思う。警 察官はたぶん、社会的な常識で思考するのだから。  ある説によると、全人口の1%にはこのような反社会性人格障害者がいると言う。 もちろん殺人事件にまでエスカレートするのは、そのなかのごくわずか。だからこう いう加害者に運悪くつきまとわれた場合は、まず警察からはあまり理解されないと考 えた方がいいかもしれない、と……まで、私は思うのだ。  一方的に反社会性人格障害者から危害を加えられた場合、そこからの逃げ道はない のではないか。目をつけられたら最後、頼りになる者はいないのではないか……とい う気さえしてくる。  もし、警察が介入して指導したり、あるいは法的に逮捕されたとしても、数ヶ月で 出所するか、執行猶予になる程度だろう。そして、また嫌がらせが繰り返された場合、 あるいは復讐に来た場合、いったい被害者はどうやって身を守ったらいいのか……と 思う。  そういう不安の行き着く先が、アメリカのような銃社会なのかもしれない。  仮に、もし警察が被害者の話を真摯に聞き入れて捜査したとして、警察としてどの ような対応手段があったのか?相手は、ただ衝動的に、未来への計画性もなく、周到 に攻撃を繰り返すことに執着している。しかもウソつきで、頭は良く、犯罪を犯すこ とを悪いとは思っておらず、ひたすら被害者を逆恨みして、苦しめることに命がけ…… だとしたら。  以前、私の友人がこう言った。「そういう場合は1千万円で傭兵を雇う」と。  桶川ストーカー事件の判決を聞いた朝のような気分で、今は戦争のニュースを見て いる。  もし、国家の指導者が反社会性を帯びた人格であったとしたなら。もし、そうであっ たなら、私たちはどうしたらいいのだろう。  そのとき、各国の法や正義は人民を守れるのか。  隣国、北朝鮮の現状を知るにつけ、私はなにかこう胸苦しいような思いにかられる。 この国の指導者に反社会性人格障害の因子をいくつか見てしまうからだ。この存在の 前に世界の秩序も人間の尊厳もむなしい。それなのに、彼はとてつもなく人間的なの だ。  イラクへのアメリカによる武力攻撃開始後、小泉首相は「日本を攻撃するのはアメ リカを攻撃するのと同じと見なす」というアメリカの言葉を信じる、と、何度も繰り 返していた。それはたぶん、北朝鮮に向けての威嚇だろうと思った。日本がアメリカ を支持することは、テロ抑止につながると首相は言った。  日本はまるで、ストーカーにつけねらわれて警察に駆け込んだ少女のようだと思っ た。なにかせつなかった。私は政府の武力攻撃支持の表明に反発しながら、その反面 でほっとしている。  北朝鮮はアメリカを恐れるだろうし、もしかしたら政府のアメリカ支持表明によっ て拉致被害者のご家族との接触の可能性も生まれるかもしれない。あまりにも自国優 先の姑息な浅はかな考えだけれど、そう思ってしまった。反発しながらほっとしてい る自分にひどい矛盾を感じる。  先は長いなあと思う。日本の平和憲法が通じるのは、相手が「話せばわかるかも……」 という場合だ。話せばわかるという場をつくらないと。まず北東アジアに。  昨年、東大の五月祭に行ったおり「北東アジアの文化交流」というシンポジウムに 出かけた。広い会場に観客の姿はまばらだった。あまりに人が少ないので少ないこと にびっくりした。でも、考えてみたら、私が二十代〜三十代にかけて、私が目を向け ていたのはずっと欧米だった。  アジアのことなんて真面目に考えたこともなかったのだ。  いまはずいぶん変わってしまった。素朴に、自分が暮らしていくためにまず地域の 理解が必要だと思うようになった。近所隣りの国と「話せばわかるかも……」という くらいの関係を維持することがどんなに大切かと実感する。  アジアの国々と良い関係を築けたなら、こんなにもアメリカというボディガードを 必要としないだろう……。  いま、世界がアメリカを止められなかった。日本はアメリカを支持するが、絶対に 武力攻撃には参加しないと首相が言った。その言葉を守って!と切望する。  昨日の夜のニュース番組で、キャスターの方が「あるアメリカの週刊誌が日本はレー ダーに映らないほど存在の薄い国になったと書いた」という話をしていた。  私は欧米の中で存在なんか薄くてもいいよ。薄い方が好都合だと思う。そっと静か にアジアに向いてもらいたい。経済成長の結果どうなるのか、それを伝えて、隣近所 と共に歩む道を模索してほしい。  アメリカの民主主義、資本主義の洗礼を受けた私が、ここにきて「なにか違う」と 感じている。その感受性の根本にあるものが、「アジア的なにか」だと私は感じてい る。 ■■■田口ランディのコラムマガジンhttp://www.randy.jp/■■■ 2003.3.21から転載です。