ぼけてなお、幸せに生きるために〜 『「痴呆老人」は何を見ているか』 大井玄著(評:澁川祐子)新潮新書、700円(税別)2008年4月7日  本  認知症  老人  医療  つながり  高齢社会  4時間30分 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080404/152263/  高齢化社会が問題となって久しいが、書店の棚を眺めていると、いよいよ事態が深刻化してきたなと思う。 ここんとこ、「老」の文字がついた本がさかんに目につくようになったからだ。老後の生き方指南書はもちろん、 住まいや遺言の残し方などハウツーものも多い。そうした本のなかから、 『おひとりさまの老後』(上野千鶴子著、法研)といったベストセラーも生まれている。  第一次ベビーブーム(1947年〜1949年)の世代が60代に差しかかり、 高齢者(65歳以上)が増加の一途をたどる日本の社会。 そこには、「老いていく自分」に対する不安が渦巻いている。 だからこそ、「老後をいかに過ごすか」を説く本が次々と出版されているのだろう。  年とともに体力、気力が失われていくのを実感しつつ、 もしも病気になったら、「ぼけ」てしまったら、と不安ははてしなく浮かぶ。 だが、病気も「ぼけ」もいくら防ごうと思っても、完璧に防げることは決してない。 老いを直視すると、うつになる世界  なったらなったときさ、と開き直れればいいのだが、それにしてもいまの社会には、 「老い」に対するネガティブイメージが強すぎる。 介護問題、年金問題、孤独死──「老いてなお幸福」という一般のモデルがあまりにも少ないのだ。  そんなことをつらつらと考えているところに、 この刺激的な題名の本に出会った。著者は、終末医療に長年携わってきた医師である。  本書の序盤では、なぜ著者がこの道に入ったかといういきさつが語られる。 アメリカでの医療生活を終え帰国、アルバイトで長野県佐久市の 「ぼけ老人・寝たきり老人」の宅診に関わるようになる。 そこで著者が見たものは、認知症の老人たちの孤独な姿だった。 そして、著者は宅診を終えるたびに、急性の抑うつ反応を起こしている自分を見い出す。 〈今にして思うと、それは老いという衰えの過程を直視することによって生ずる、抑えようのない恐怖でした〉  以後、著者は「先生にきてもらって調子がよくなった」という患者の存在によって救われ、 「痴呆老人」の心象世界へと深く分け入っていく(現在「痴呆」の代わりに 「認知症」の語が使われるが、著者はあえて「痴呆」の言葉を残している)。その真摯な語り口は、読む者の胸を打つ。  そして、この本が“「痴呆」のメカニズムを解明します”というただの 医療書ではないことがわかってくる。 これは、「痴呆」という生のありかたを通して、著者自身が「生きるために必要なもの」を模索した産物なのだ、と。 知力ではなく「つながり」の低下が痴呆を生む  「痴呆老人」の世界観を手探りするなかで、著者がたどりついたのは「つながり」というキーワードだ。  本書には、著者が東京都杉並区で行った調査について、その驚くべきデータが記されている。 区内に住む「ぼけ老人」(妄想、幻覚、夜間せん妄症状など異常行動のある老人のこと)と 「正常老人」の知力の低下について調べたところ、 〈「ぼけ老人」の約二〇%は正常か軽度の知力低下があるだけで、 大部分の方は「うつ状態」と思われました。逆に「正常老人」の一〇%近くで、 中程度から重度の知力低下が見られた〉  という結果が出た。それを受けて著者は、 〈「ぼけ老人」は老人自身の問題というより、周囲との関係による場合が多いようです。 意地悪な人間関係の下では「ぼけ老人」は早々に発生するが、温かく寛容な人間関係では、 知力が相当低下しても「ぼけ」とは認知されにくくなる〉  と結ぶ。「ぼけ」は知力低下ではなく、周囲の人々とうまく 「つながり」を保つことができない不安やストレスによって引き起こる 「うつ状態」が表面化したものだというのだ。  では、周囲との「つながり」によって左右される「自己」とはいったい 何なのか──後半に入ってくると、医療という枠を超え、哲学的な問いが発せられる。 著者は、「私」を〈名前や年齢、家族、職業といった属性や社会的関係、 さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」〉と表現する。 断片的な「私」を結びあわせているのは、記憶力である。 だが、記憶力の低下によって、つながりが失われ、 「私」がほどけていく。その過程が認知症だというのである。  「私」がほどけていくことへの不安や恐怖、怒り。 こうした苦痛からの逃避が、仮構の世界を作り上げたり、 若返り現象を起こしたりする異常行動となって現われる。 そうした人々に対して、記憶力に頼った「情報的コミュニケーション」は 無力である。それよりも「情動的コミュニケーション」が効果的であると主張する。  「情動的コミュニケーション」とは、要するに「心のやりとり」である。 たとえば、グループホームで談笑している認知症の女性たち。 彼女たちは、好き勝手に自分の言いたいことを話している。 明らかに会話は噛みあっていない。だが、彼女たちはとても楽しそうである。なぜか?  彼女たちの間では、相手の話を理解して受け答えをする 「情報のやりとり」は成り立っていない。 かわりに、楽しい気分を分かちあう「心のやりとり」で、まわりとつながっているのだ。 ほどけていく「私」を結び直せ  「はじめに」で、著者は〈われわれは皆、程度の異なる 「痴呆」である〉と述べていた。最初はその意味が理解できなかったが、 読み進めていくうちに合点がいった。人は、 多かれ少なかれ「つながり」を求めている。 そして、誰しもが「つながり」の間に「あたたかい感情」が やりとりされることを望んでいる。 それは、健康な者であれ、痴呆老人であれ、変わらないのだ。  最後に、たびたび著者が引用している沖縄県島尻郡佐敷村での調査結果を紹介しよう。 調査は65歳以上の村人708名全員を対象に行われたもので、 「老人性痴呆」と診断された27名のうち、うつ状態や異常行動を示したのは、 はたして何件あったか。  答えはゼロである。  これは、同時期に東京都で行われた調査と比べると、驚きの数字である。 佐敷村の「老人性痴呆」の割合は全体の4%で、有病率は東京都とほぼ同じであるという。 だが、東京の場合、そのうち半数がうつ状態、もしくは異常行動を示していた。  沖縄はもともと、敬老思想が強い土地柄である。 「おじい」「おばあ」と呼ばれ、まわりから慕われて暮らす老人たち。そうした環境では、 「老いていく自分」を受け入れやすく、「ぼけ」に対する恐怖心も少ない。 だからこそ、彼らは知力が低下していても、心穏やかに生きている。 このことは、われわれに「知力低下=不幸せ」ではないことを教えてくれる。  老いて記憶力が失われていってもなお、幸せに生きることは可能だという一筋の光。 超高齢社会を前にして、この本が訴えかけるものの意味は、あまりに大きい。 (文/澁川祐子、企画・編集/須藤輝&連結社)