敷金という名のグレーゾーン  鷺沢崩(作家) 新潮45 10月号 より 不動産仲介業者との「我が闘争」 敷金は返ってこないのが普通、だなんて思い込んでいませんか? 泣き寝入りし ないための「闘い方」教えます。  世の中には二種類の人間しかいない、というのは小説や映画などでよく使われ るレトリックだ。たとえば私は、ずいぶんと以前に見た映画の中に、こんな台詞 があったことを憶えている。 「世の中には二種類の人間しかいない。 『ドアから入ってくる奴』と『窓から入ってくる奴』だ。  西部劇だったように記憶している。私もこのレトリックを真似してみたい。  世の中には二種類の人間しかいない。 「金利をもらっている奴」と 「金利を払っている奴」である。 新潮45 10月号 (2002)p142より ////////////////////////////////////////////// 敷金が全部返ってこない? ここにこれから書くことは、特定の個人あるいは会社の誹誇・中傷を目的としたものでは決してない。 賃貸不動産物件の「敷金」というシステムがそこに内包している危険性について、 できるだけ客観的かつ冷静に意見を述べたい、と考えている。  私は、「自分のやるべき仕事をしない」種類の人間が嫌いである。 なるべく「ラクな方向性」でものごとを進めていこうとする、という種類の人間も嫌いである。  ことの発端は、二〇〇二年の六月十九日に起こった。 些少なバイト代をお支払いして私の仕事を手伝ってもらっている0さんが、前日にあたる六月十八日、引っ越しをしていた。  0さんは二十六歳の女性。以前は、都心にある、とある出版社に勤務していた。 出版社勤務時代の彼女が暮していたのは都内西武池袋沿線のワンルームマンションであるが、 今度は私の仕事場に通うのに便利な東急沿線に引っ越すことになったのである。  六月十八日は、0さんが西武沿線から東急沿線に引っ越した日であった、ということになる。 ところが翌十九日、私はOさんの口からこんなポヤキが洩れたのを聞いた。 「(退去するほうの物件の)敷金が全部返ってこない、って言われちゃったんですよ」  それはおかしい、と私は瞬間的に思った。  彼女がそこに住んだ期間はたった二年間だ。しかも出版社勤務時代は「寝るためだけ」 に家に帰っていたような0さんである。しかも彼女には喫煙の習慣すらない。 喫煙しない者が住む部屋と喫煙する者が住む部屋では、ありとあらゆるものの汚れぶりが、まるで違ってくる。  敷金というものは、「入居者が入居してから退居するまでの債権の担保」である。 つまり、うっかり重いものを落として床に穴が開いた、とか、 カーペットに煙草の焼け焦げを作ってしまった、とか、 そういう事態が生じたとき−−−万一の事件に備えて、賃貸人は賃借人から担保を取る。 それが「敷金」である。  そんな「万一の事件」みたいなものが、二年間その部屋に住んでいるあいだに起きたのか、と私はOさんに訊ねた。  そんなことはない、フッーに住んでいただけだ、 との答えだ。  その賃貸物件の貸主はMさん。賃貸物件の入退居にはもちろん仲介業者が挟まっているので、 Mさんから直接「敷金は返せない」と言われたわけではない。 仲介業者はふたつ挟まっている形になっているが、Oさんに実質的に接することになったのは株式会社Sという不動産会社である。  私はその日のうちにS社に電話をした。 「0さんが退去した賃貸物件の件ですが、敷金が全部返ってこない、というのはおかしいと思うんですが…」  というような内容を、最初のうちはごく丁寧な口調で切り出したのだが、ろくな説明もせずに 「とにかく返せない」という意味のことを繰り返すばかりの担当者K氏に業を煮やした私は言った。 「0さんはおたくの仲介ではじめて賃貸物件を借りた、というような人です。 世間知らずな部分もあったかも知れません。これからは私があいだに立ちますので、 Oさんの賃貸物件の退居に付随する敷金の返還に関する話し合いは、私を通して行っていただけませんか?」  そうして私は自分の名前と電話番号をK氏に伝えた。ところが次にK氏の取った行動は、 私に電話をせずに0さんの携帯電話に連絡を取る、という非常に判りやすいものだった。  K氏にとっては不幸なことに、0さんの携帯電話が鳴ったとき私はOさんと一緒にいたので、 Oさんの携帯電話からすぐに同社に電話を返し、少し厳しい口調で抗議した。 するとK氏は慌て、「上の者に代わるので」と電話を保留した。K氏の言う「上の者」とはT氏。 電話はいったん、T氏に委ねられる。このT氏という人が、ある意味ではK氏より「判りやすい」感じの人だった。 T氏は私にとっては非常に可視的な性差別主義者であるらしく、 相手が女だということで「チョロい」と思っているらしいのが電話越しにも手に取るように伝わった。  そうして私は、仕事の現場に性の特権を持ち込むアジアの男にありがちな性質を見つけると、 では当方も「小学生女子」にならせていただきます、というふうに思い、 「いーけないんだいけないんだ、せーんせに言ってやる一」という幼稚なことを叫びたくなるのだ。  小学生女子に対する口調で、下氏は「直接の借り主であるOさん以外の人とは話せない」 ということを繰り返すばかりである。 この時点で、明らかに人を見下している感じの話し方をするT氏に激しい怒りをおぼえた私は、 「もう話すことはありません。明日委任状を取りますので」と言って電話を切った。六月十九日の夜のことである。 「見積書」のカラクリ  翌六月二十日、朝いちばんでOさんから本人の署名と捺印付きの委任状をもらった。 同社にふたたび電話をし、本人による署名捺印付きの委任状を取ったので、 これからは私と話をするように、と言う。 そうして、なにゆえに敷金全部(家賃の二か月分の十四万四千円)が消えるのか、 その見積書を早急に送るように、という至極あたり前の要求を何回目かの電話で再度強い口調で言うと、 あろうことかK氏は言った。 「はい、今から作ります」  底が割れる、というのはこういうことだ。  見積もりさえ取っていない時点で賃借人に 「敷金は全部返ってこない」と言っているのである。  最初から、賃借人の敷金を全額取る気まんまんなわけだ。 その電話から見積書がファックスで送られてくるまでの所要時間はなんと七時間である。  その長い長い待ち時間の中で、私は国土交通省(旧建設省)の住宅局住宅総合整備課に マンション管理対策室というものがあり、「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」なるものがあることをインターネットによって知る。  ガイドラインが作られている、ということはつまり、敷金の返還に関するトラブルの件数がそれほど多いということだ。 と思うが、そのガイドラインの中に、「原状回復とは」という項目がある。  「原状回復を「賃借人の居住、使用により発生した建物価値の減少のうち、 賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、その他通常の使用を超えるような使用による損耗等を復旧すること」と定義し、その費用は賃借人負担としました。そして、いわゆる自然損耗、 通常の使用による損耗等の修繕費用は、賃貸人負担としました。  原状回復は、「賃借人が借りた当時の状態に戻すことではないことを明確化」の一文が、 その後わざわざ別フォントによって強調されている。これを私なりに判りやすく翻訳してみることにする。  たとえばレンタルビデオ店でビデオを借りたとしよう。 失くしてしまう、だの、 ビデオパッケージの一部を破損する、だの、 明らかに「借りたほう」に落ち度がある場合、 それはやはり「借りたぼう」が弁償すべきであろう。  だが、ビデオというのはどんどん擦り切れていくものである。 ましてやレンタルビデオというものは、最初から「不特定多数の人たちに使用される」ということが 決まっている種類のものである。擦り切れるほど使われて、もう使用不可能な状態になってしまったら、 それはレンタルビデオ店側が新品を入荷すべきである。 「部屋」という「商品」も、レンタルビデオと同じように考えてみればよい。  部屋はそこに人が住めば、だんだんに汚れていくのが当然である。 部屋をまったく汚さないための唯一の方法は「そこに住まない」ことであるが、 もとから「住む」ことを大前提として貸し出している「部屋」という「商品」が 年数にしたがい汚れていく場合、「商品」の劣化に関して、 責任を持たねばならないのは賃貸人の側である。 K氏が送ってきた見積書の内容を記す。 力ーペット貼リ書え  単価・三六〇〇円  数量・一五平米  五万四〇〇〇円 クロス貼リ替え  単価・二一〇〇円  数量・六六平米  七万九二〇〇円 洗面水漏れ  一式・三〇〇〇円 ルームクリーニング  一式・二万六〇〇〇円 諸経費  四〇〇〇円  これを合計して消費税を付けると17万いくら、という数字が出てきて、 「だからほんとうに0さんの敷金は全部これで欠くなるんです」というのがS社の言い分である。  以下に東京司法書士会・立木宗一氏の談話を記す。  「これまで、敷金返還の査定については、家主・業者主導で、 借り主は泣き寝入りしていた、というのが現状だったと思います。  敷金返還に関して寄せられる相談の八割が「クリーニング代、クロス張り替え代、 畳表の交換代」の三つに関わるものです。これら三点については、いまだ大家側の意識として、 退去時に借り主負担で原状回復するという感覚が強いのだと思います。  ただ、電話相談を経て少額訴訟に持ち込むケースは確実に増加していますし、 こういう経験をすることでオーナーサイドも基本的に敷金は返還するものであるという 意識に変わってきているのではないでしょうか。  以上のことを鑑みても、百歩譲って「ルームクリーニング一式」と「諸経費」は 敷金から削ってもいいが、他はすべて賃貸人の側で持つべき出費である、と私には思える。 その上、この見積書にはもうひとつ問題がある。待ち時間のあいだに私はS社のホームページをも探し出していた。 同社には「インテリア事業部」なる部署があり、そこの担当者はたまたま前述した下氏であるらしいが、 同社ホームページ上の「内装工事」という項目で「インテリア事業部では、内装に関する改装、修繕、清掃等を 行っております。 何でもお気軽に御相談下さい」などという軽やかな謳い文句とともに記載されているのは以下のような値段である。  クロス張替   平米あたり 700円〜  カーペット張替 平米あたり 2600円,  同社では、自分が顧客をゲットするための宣伝文句としては、そのような価格を謳っているくせに、 賃借人から敷金を奪うための見積書にはへーきのへーざでそれより数割(ほとんど倍額と言ってもいい値段だ) 高い価格を書いてくるのだ。  とにかく六月二十日、委任状と見積書のファックスでの応酬があった。 その後にS社側が言ったのは、以下のようなことである。 「実際にどれだけ汚れているか、ということをその目で確認してください」  これは不動産業者が常套句的に使うことばである。何度も言うが、部屋はそこに人が住めば汚れる。 多少意地悪な言い方を敢えてするが、そうした「汚れっぷり」を本人の目で確認させて、 「そうか、こんなに汚してしまったのは自分なのか」と実感させる、という一種の心理作戦である。  S社の言い分に対しては、私は 「0さんが入居する前の部屋の状態を、写真か何かで記録してあるかどうか」 と訊ねた。 「記録していない。」 との答えを聞き、「比較対照するものすらないものを確認する必要はないと思う」と答えた。 ゼロが十一万円に  翌二十一日、S社から電話がかかってくる。この話を切り出すのはもうちょっとあとでもいいかも知れないな、 と考えていたが、もう面倒だし、いちばん懸念していた入居時における契約書をその時点で目にしていたこともあって、 私は伝家の宝刀を抜いた。 「おたくの会社とこれ以上話しあってもラチがあかないと思うので、 オーナーのMさんの住所をファックスしてください。こちらから内容証明を送ります」 肝心な点だが、特に若い女性などがはじめてひとり暮らしをする、 というような場面で交わされる賃貸物件の契約書には、ほんとうに充分な注意を払ってほしい。 「原状回復費に関する特約」が記載されているかどうか、 賃貸借契約締結時に「重要事項説明」を受けたか、 また「重要事項説明書」が介在するかどうか。 「契約書」と呼ばれる種類のものに自分が署名捺印しなければならない場合には、それなりの認識をしてほしい。 ふたたび立木氏の談話を記す。 「借り手の権利について知識のある人だけが少額訴訟を起こしてある程度の返金を受け、 反対にこれらの手続きにまったく無知な人は泣き寝入りする、というのは不公平ですよね。 不公平ではある。不公平でなくするためには、自らが知識を持つしかない。  0さんの物件に関しては「原状回復費に関する特約」はなく、 たとえば実際に東京簡易裁判所で少額訴訟を起こせば、敷金はまるまる返ってくると思う。 だがそこまでするのは正直言ってこちらも面倒だし、納得のいく額が返ってくればいいと考えていたので、 「オーナー宛てに内容証明云々」を持ち出したわけだ。  なぜなら、仲介業者というのは、オーナーにまで累が及ぶのをとても怖れる。 そのオーナーが所有している物件の仲介や管理を、この後していけなくなる可能性が出てくるからだ。  見積書を作るのにはほとんど丸一日かけたS社の対応は、今度は素早かった。 数時間後に電話がかかってきて、K氏は言った。 「敷金十四万四千円のうち、十一万二千円をお返しする、ということで納得していただけますか」  上等である。 「0さんの振込先はご存知ですね?」 「はい、内装工事終了のあと振り込ませていただきますのでご確認ください」  たった三日のあいだに、ゼロが十一万になった。  これは手品でも何でもない、オーナーだって人間だから、自分がカネを出すのは厭だ。  しかしワンルーム程度の賃貸物件を仲介する不動産業者というものは、 圧倒的に「店子」のことより「オーナー」のことを気にかける。  つまり、「店子」の利益よりも「オーナー」の利益を考える。あるいは、 仲介している「自分たち」の利益を考える。ゼロが十一万に増えたそのからくりの中で、 十一万をオーナー側がかぶっているのかS社側がかぶっているのかは知らないし特に知りたくもない。  しかし今どきの店子さんは「目が肥えている」だろうとは思うし、 見積書に記されているようなリフォームは、実際にやらなければ物件が潤滑に回転しない(空き室である状態が長い)だろう。  仲介業者の「やるべき仕事」はそういうところにあるのだど私は考える。 物件を潤滑に回転させるためにリフォームが必要なのであれば、 オーナー側にも店子側にも充分な説明をして、それぞれが納得いく比率でリフォーム代金に関する折衝をするべきだ。  私がS社のやり方に納得のいかないものを感じたのは、 「やるべき仕事」をせずに、「取りやすいほう」からカネを取ろうとしている、という雰囲気を嗅ぎ取ったからである。  今回のオーナーさんかどういう方なのかを私は知らない。 もしかしたら、投機として不動産を買ったはいいが、バブルの崩壊後はとても苦労している、な どの事情があるかも知れない。物件の完成は八○年代の末で、あのころのこの国の狂いっぷりを思い出すと、 ワンルーム程度の物件のオーナー、という立場自体がまた「時代の犠牲者」と呼べるものであるかも知れない。 別の不動産業の方から伝聞の形で聞いたケースだが、バブルのころに銀行から、絶好のチャンスです」 などとそそのかされて借金をした上で賃貸用のワンルームを投機として購入。 当時の計算では賃貸料で銀行から借りたローンの返済をできるばかりでなく、 プラスアルファも付いてくるはずだった。 しかしその後、市場価格が人暴落、月々十万円以上で賃貸にまわしていたワンルームには 借り手がつかなくなり、仕方なく家賃を下げたが、それではローンの返済ができなくなり、 本人は自分が所有しているワンルームの賃料よりも安いところに住んでいる、という皮肉なケースもある。  そういうことを考えると、「不動産所有者」と「金利生活者」を 単純にイコールで結びつけることはできないとも思うが、とにかく言いたいことはひとつ。  カネは「取りやすいほう」から取るのではなく、「持っているほう」から取ってほしい。  世の中には二種類の人間しかいない。 「金利をもらっている奴」と 「金利を払っている奴」である。 敷金というのは、たいへんにクロに近いグレーゾーンだと私は思う。また、これはすべての人間の性質として、 「預かっているもの」を「所有しているもの」と  勘違いしてしまう傾向というのは、誰しも持っているものだと思う。 しかし「敷金」は、 確実に「預けるもの」,「領かるもの」である。  このことはきっちりと認識しておいたほうがいい。  私も不動産所有者ではあるが、もちろん借金して買ったものなので、 「銀行」というもっとワケの判らない大きなグレーゾーンに対して利を払っている、 という意味で「金利を払っている奴」にカテゴライズされる人間である。  世の中には二種類の人間しかいない、と書いたが、思っているより「世の中」というのは広いので、 実は「金利」という概念そのものが存在しない文化を持っている人たちも地球の上には住んでいる。  この国の狂ったような好景気とその後の異常なほどの不況を見ていると、 「金利」という概念そのものに対する見直しが必要なのだろうなあ、とも思うが、 私はそちらのほうの専門家ではないのでそちらのほうの「グレーゾーン」に関しては、専門家に任せる。  最後に、これを読んで「ゴネた者の勝ち、ということか」 と思われた方もいるかも知れないが、私が言いたいのはそういうことではない。 「泣き寝入り」はしないでほしい。 「騙されやすい人間」にならないでほしい。 「チョロい奴」と思われないでほしい。 ひとりひとりがそういう意識を持つことで、今後の被害者が減る。 「位き寝入りする奴」 や 「騙されやすい奴」や 「チョロい奴」 からカネを取ってヌルい商売をする連中が減る。 そういうふうに思っている。